COLUMNCOLUMNグーフィ森の『Single Speaker』

Single Speaker Vol.24 「フェラーリでブッ飛ばせ!?」 

2015-08-20

自立打ち原稿 第2弾です。

運転免許を失効させてしまってから今年で5年になります。大病を患った翌年が免許の書き換えだったのですが、後遺症てんこ盛り状態ですから免許の更新は諦めるよりなかったのです。自他共に認めるクルマ好きですから、なんとも情けないことになったもんだと自身の体調管理のずさんさをつくづく悔やんだものです(苦笑)。

先日 リハビリのトレーナーさんとの会話の中で、「森さんって、クルマ好きだったんでしょ。どんなクルマが好きだったんですか?」と訊かれたんです。この言葉、ちょっとショックでした。「好きだったんですか?」と質問がすべて過去形であったことで、やはりドライバーとしては見てもらえない、クルマとは無縁の人間になってしまったんだなぁと実感させられたんです。そして、そういえばここ最近クルマ雑誌も眺めていないし、メーカーのホームページも開けていない…… “やっぱりマニア失格かな!?”と納得させられてしまったわけです。その言葉がグサッと刺さった! ってやつですかね。ですがその会話は“クルマ”というボクにとってのエネルギー源を見事に復活させてくれました。

と、あれやこれやとクルマに関する思い出がグルグル巡ります。

ボクのクルマ好きはモータースポーツから始まりました。昭和30年代後半のことです。日本海に面した京都府 山陰の片田舎のことですから、自家用車(古〜い言い回し!)はまだまだ珍しく、公道を走るのはバスやトラックといった商用車が主流という時代でした。当時ボクは隣町の耳鼻咽喉科の病院に週一でバス通院していたのですが(当時ボクは蓄膿症で慢性中耳炎という まったくもって耳鼻咽喉科にストライクな子供だったです)。その通院で利用する停留所(これも古い言い回しなのかな?)のお隣がこの地方で最も大きな書店だったのです。ボクの町じゃ見ることができない雑誌がまさに山積みでした。読書好きではなかったのですが、毎週 帰宅のバスを1本遅らせてはこの書店に入り浸っていたのでした(田舎ですから1本乗り過ごすと約1時間の自由時間が生まれたのです!?)。今考えると、ボクの雑学好き雑誌好きは、この書店での自由時間で育まれたものなのかもしません!? とにかく雑誌を読みあさってましたから。で、ハマったのが『Auto Sports』というクルマのレース専門誌。F1だの世界ツーリングカー選手権だの、世の中にはこんなかっこいいクルマのレースがあるんだ! と田舎の小僧は鼻息を荒くしながら毎週見入っていたのです。そのうちに、何かあったら必要だろうからと少し多めに持たせてもらっていた通院費から雑誌代を……すいません!! 50年目の懺悔です!? その後鼻と耳は良くなりましたが、クルマ好きレース好きはどんどん加速していくのです(アクセル全開グセはこの頃からかも! アハッ)。小学2年生にして『driver』だの『cargraphic』だのクルマ専門誌ばかりを定期購読し始めたのです。「マンガを買うよりはまぁいいか」と親も公認だったことと記憶しています(だよねぇ〜!?)。

そんなテツヤ少年は(失礼、本名です)、すくすくと育ち立派なカーマニア(?)となり、二十代半ばからは雑誌『popeye』の編集部に席を置くフリーランスの編集者となるのであります。バンドマンであったこととバイクのレースをやっていたこと、そして根っからのクルマ好きが買われて編集部のバイク&クルマ&音楽の担当を任せられるようになっておりました。おかげで、どの編集者よりも海外取材が多いという恵まれた環境にあったのです。海外アーティストのコンサートリポートや海外メーカーの新車発表会&走行会等々。バブルが弾ける前のことですから、そりゃ贅沢な取材がわんさかありました。まさに“ボクにとってのおいしい時代”でした。「グーフィ、イギリスにクルマ走らせに行くんだったらさぁ、20ページくらい街ネタで作れない?」な〜んておいしい話が毎月のように勃発していたのです。それらはどれも貴重な体験(経験)で、その後のボクのすべてのクリエイティブワークの大きな礎となっていることは間違いありません。

で、話をクルマに戻しましょう。1988年だったと思います。フェラーリの代表的なディーラーである『コーンズ』さんから電話をもらったのです。「グーフィさん、い〜いディーノが出たんですよ。見てみませんか?」。これには飛び上がった飛び上がった。ディーノとは言わずと知れた“フェラーリ ディーノ246”のこと。クルマ好きなら誰しも一度はそのハンドルを握ってみたいというフェラーリを代表する1台。フェラーリの創設者エンツォ・フェラーリの急死した愛息アルフレード・フェラーリの愛称ディーノの名で呼ばれ1969年〜1974年に販売されたフェラーリの中のフェラーリ。ハンドリングプレジャーと称されるその素晴らしいハンドリングは、カーマニア羨望の1台なのです。ディーラーから電話をもらったのは、「今度いいディーノが出たら教えてください」とコーンズ主催の試乗会に参加した際に伝えていたからで……夢のようでした。ですがボクが欲しいと思っていたディーノは、元の所有者がワンオーナーで色はイエローと決めていたものですから、2オーナーのホワイトカラーのディーノは泣く泣く断念するよりなかったんです。するとコーンズさんが「そうですかぁ。でも一度乗ってみませんか?」とこれまた夢のような展開に。で、箱根への夢の試乗とあいなったのでした。

ディーノを駆るのは初めてのことでした。この日のためにドライビングテクニックを磨いてきたんだ!ってな勢いで箱根ターンパイクを攻めると、「なぁんじゃこりゃぁ?」と拍子抜け。想像していた走りとまるで違う。その頃、サーキット試乗会やドイツ アウトバーンでのハイパフォーマンスカー試乗会などという、とてもバブリーかつ豪快な試乗を経験させてもらっていたので、ちょっと感覚が麻痺していたのかもしれません。憧れが強すぎてディーノへの期待が空回りしてしまっていたのかも……とにかく胸のすくような加速に魔法のコーナリング、「さすがディーノ!!」となるはずだったのです。ボクの想定ではね!? ところがどっこい、ビックリです。パワーアシストがないので、ハンドルもクラッチもくそ重い。いや重すぎる。自慢のドライングテクニックを披露するはずだったのですが……これがコーナリングマシンとまで言われたディーノなのか!? と右往左往。助手先で唖然としているコーンズの彼に「大丈夫ですか?」と心配されてしまう有様。きっと「コイツに貸して大丈夫だったかなぁ、トホホ」と不安がられていたにちがいないのです! がしかし、復路は俄然ちがいました。落ち着きを取り戻してくると、まさにドライビングプレジャー。ハンドルを切った分だけコーナーを鮮やかに曲がる。頭で描いたままのラインをオンザレールで走り抜ける! アクセルを踏み込んだ分だけ非常にスムーズにエンジンが吹き上がる。“これぞまさにフェラーリの傑作ディーノ!” とコーンズさんが助手席にいなければ大声で箱根の山に向かって叫びたい気分だった。往路とはまるで別人のよう、とても同じドライバーの運転とは思えません。まさにフェラーリマジック!? 東京に戻りディーノから自分のクルマに乗り換えたとき、「うわぁ〜ついに乗った乗った。あのディーノに!」とニヤニヤしていたのはいうまでもありません。そしてこうも考えました。「ディーノと現代版スーパーカーと比べちゃいかんのだな。別モノなんだ!」と。

あれから15年あまり、現代のスーパーカーはハンドルもミッション(変速)も電子制御の楽々モノ、エアコンだってちゃんと効きますしオーディオだって装備してます。今やF1だってセミオートマチックトランスミッションですからね(ま、オートマみたいなもんです)。そして今のハイパフォーマンスカーときたら誰がドライブしたってそれなりに速く走れるんです。ドラテク(ドライビングテクニック)がなきゃ乗れないよ! なんて言っていたのは昔のことなのです。ですが勘違いしないでください! 本当に速く、そして華麗に走るにはテクニックもセンスも必要なんです。あくまで“それなり”のレベルの話なんです。

あれあれ、前回の話の延長線上のような展開になってきたような!?

とにかく現代においてコンピュータは、あらゆるテクニックをフォローしてくれます。ドライビングであれ音楽制作であれ……です。ですが、本当に速く華麗なドライビング、そして素敵な感動を与えてくれる音楽を創るには、やはり真のテクニックやセンスが必要なんです。絶対にね! フェラーリ ディーノを初めて駆ったあの日を思い出しながらそんなことを考えたのでありました。

……またまた長くなってしまいました。以後注意注意!

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