COLUMNCOLUMNグーフィ森の『Single Speaker』

Single Speaker Vol.49 『極私的プロファイル!?』 

2018-01-05

●さて前回に続いて極私的バイオグラフィーです。前回はEXP0’70リポートまででしたよね、もちろん万博からの帰省後我ら3人は丹後 網野町のちょっとした“時の3人組”でした。なんたって町で最初の万博経験者ですから!? しかもカナダ人と意気投合し食事までご馳走になるは(アレッそうでしたっけ!!?)それはそれは有意義な万博探訪だったのですから!? 帰郷後、お祭り広場で友人がぶつかったカナダ人とのエピソードは、日を追うごとに話は盛りに盛られて、2倍にも3倍にも大きくなっていったのです!? 夏休み終わりには丹後とカナダの友好条約締結まで行っちゃうんじゃないかという勢い(もちろん冗談レベルのお話です)でボクら周囲で盛り上がっておりました!? 今考えるとこっぱずかしいお話ですが、1970年はやはり遠い昔の1コマなのです。ははは…。

1970年以降、時の加速度はとんでもないスピードへとなって行きます。様々な変化がボクの周りで起こって行きますが、それを事細かくフォローしていると、一冊私小説を書き上げなければいけないことになってしまうので、ここはざっくりと進めましょう。

●1974年春 大阪芸術大学入学 大阪暮し始まる
ボクは人(他人)とは違う人生を歩みたくて(またこの漠然さがいかにもボクらしい)、その可能性のある大学を目指すことにします。こういうと聞こえはいいですが、ようするにやりたい事が定まってなかったってことです(笑)。で、人とは違う毛色の大学(芸術大学)を目指すこととなったわけです。未来への可能性が広がるんじゃないかという甘い考えから導き出された、ボクなりの戦術だったのです。さぁここからがボクのジェットコースター人生のスタートです。

受験は恐ろしくスムーズに進みました。ボクの通っていた高校は、田舎の公立校でしたから芸大を受験するってことそれ事態がニュースでした。「森は芸大を受けたいんだって? 何を目指すために?」「そうじゃないんです。何を目指したらいいのかわからないんで芸大にしたんです」「エッ!?」「やりたいことはいっぱいあるんです。例えば、建築って好きなんですけど、建築関係で大学を選ぶと将来建築関係の仕事につく事が決まっちゃうじゃないですか。かと言って経済学部や文学部っていう一般的な学部に絞って大学を目指すのも他人と同じじゃつまんないですし…。受験は人生の大きな岐路でしょ? 今ボクはアレやこれや、とにかくやりたい事がいっぱいあって、言って見れば十叉路くらいの岐路に立ってるわけです。でもどの道が、本当にボクの人生を面白くしてくれるのかが判断できないでいるんです。だからいっそのこと空を飛んでどの道が一番面白そうか俯瞰して見れるような、そんな大学はないものかなぁと思っちゃたんです」「それが芸大かぁ? な~るほどなぁ。相変わらず面白いこと言うなぁ。森らしいかもな」

ということで、そう言ってくれた担任の先生(受験担当主任でもある)が、なんと必須5科目の担当の先生たちに声をかけ、推薦入学の手続きを取ってくれることになったんです。そこであっさりと推薦入学になったわけではなかったんですが、推薦入学のための選考テストを受けられることになったんです。なんともラッキーでした。
試験は必須5科目の軽いテストと、今考えるとこれがメインだったんでしょう、2000字程度の小論文。【自身の夢もしくは希望について2つの論点から導いて考察せよ】これを90分以内にまとめよ。というものでした。
試験の会場(教室)には40、50人はいたでしょうか。【こいつらが敵か?】そう思うと、このなかで一番目立つこと書かなきゃあな、ということとなり、『グリム童話+アメリカ=妄想癖』というなんともはや突拍子もないタイトルの回答を書き始めたのです。内容は、ボクには幼い頃から妄想癖があり、その要因となったのが、幼い頃より焦がれていたグリム童話をはじめとする童話の世界と、大好きだったアメリカの文化、この二つがボクの思考の源であり、妄想癖の最大要因である。という、なんともわけのわからない内容だったように覚えています。今思うとこっぱずかしい限りです。が、なんと推薦入学にパスしちゃったんです!? 入学してからわかったことなんですが、この推薦入学選考試験の担当主任がドイツ文学(中でも児童文学に精通)の女性教授だったらしく、彼女がボクの入学を強く推してくれたらしいのです。想像するに“グリム童話”が彼女にヒットしたのでしょうか。これまたラッキーでした。(あとでわかったことですが、ドイツ文学の女性教授は、結構キツイおばさまでしたから。自分の意見を身をはって? 通してくれたのではなかろうかと…ボクは勝手な想像をしています)

入学のプロセスも本当に幸運の連続だったのですが、芸大を選択したことそのものが、本当にボクの人生にとって大きな幸運だったように今思っています。

大阪芸術大学は、関西初の総合芸術大学(4年大)としてボクが入学した年の4年前にスタートしたばかりの若い大学でした。場所が南河内郡河南町(現在もこう呼ぶのかは定かでありません)という大阪府の南に位置する町の山中にあり、一山越えるともう奈良県という田舎立地の大学だったのです。入学当時こう思ったものです、“田舎から飛び出したくて大学受験したのに、これじゃぁ丹後に逆戻りダァ”と。しかしそれも結果オーライなことだったのです!?

まず入学して驚いたのは、当時北大に続き国内第二位というそのキャンパスの広さ。「だからこんな田舎にあるんだな」と妙な納得をしていたことを思い出します。広いキャンパスには先鋭的なデザインの校舎がゆったりとした環境で立ち並びます。なんと芸術大学っぽいことか(よくわかりませんが、当時はそう思ったのです)、と新入生の田舎者(ボク)はこれまた妙に納得なのでありました。

「なぜ関西には4年制の芸術大学がないのだ!?」というパナソニック創設者 松下幸之助の肝いりで開校した芸術大学だけに、随所に(校舎、設備、教授陣等)さすがのスケール感とクォリティーで、大阪に大阪芸大ありという展開を見せつけておりました。まぁボクもそのプロモーションにまんまと乗っかった口です、はははッ(笑)。そんな大阪芸大ですから、もう学生は見事なまでに全国区状態で、ボクの在籍していた文芸学部などその半数が大阪以外からやってきた奴らばかり、北は北海道から南は沖縄まで地方出身者・田舎者のオンパレードで、日本海側の田舎野郎と揶揄されることなく、すんなりキャンパスに溶け込めたのでした、、、と思います。これも幸運でした。

芸大に入った理由は自分の夢探しのためでもあったんですが、音楽(バンド)をやりたいという夢もありました。なので入学早々『軽音楽クラブ』に入部したのですが、これが入学最初の挫折感を覚えることとなったのです。というのが、とにかくみんなびっくりするほど上手いんです。「一緒にアコースティック・バンドを組んでくれる人募集してます」なんて、とてもとても言えるような雰囲気ではなかったですね、あの頃のボクには。田舎じゃそれなりに通用してたんですが、「井の中の蛙なんとやら…」でしたね。お恥ずかしい。「こりゃぁ無理だな」とあっさりと音楽活動を諦め、以前このコラムで紹介した“アメリカ横断ヒッチハイクの旅”へと国外逃亡を図るのでした…。

ざっくり書くと言っておきながら長~くなっております。気づくと大晦日、いけませんいけません、まだまだ他にも済ませなければならないことがどっさりあるんです。この続きは新年へと…よろしくどうぞ !!

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