COLUMNCOLUMNグーフィ森の『Single Speaker』

Single Speaker Vol.53 『極私的プロファイルVol.5』 

2018-06-02

郷里へ帰ろう、それが調理師学校入学時からの漠然と決めていたことでした。結果それが行き当たりばったり人生のボクには、ちょうどよかったのかなと今は思っています。実家に根を下ろすと、どこかへ飛んで行ってしまう心配も多少減るでしょうから‥‥。京都ライフはボンとバンの子分コンビと楽しくやれてましたし。不思議な“おっちゃん”という新しい自身のキャラクター(?)っぷりもあんがい気に入ってましたから!? 京都ライフは、大学の4年間と比べるとずっと落ち着いた時間が流れていたように今思います(もちろん随分と破茶滅茶ではありましたが)。年下の子分(?)が2人いたことや、調理師学校で毎日自分よりも若い連中といるという環境が、自分は常に大人な行動を取らなきゃなと思い込ませていたのかもしれませんね。おっちゃんは大人ですからって思い込みですかぁ!? そんなことは誰も頼んじゃいないんでしょうが……。
大人な行動を率先せねばと言えば聞こえはいいのですが、正直言うと、しっかりとした人生の目標を持つ若いヤツラに負けたくなかったというのが本当のところだったのかもしれません。ゆえの日々大人ポーズってとこでしょうか!? しかしそのことが本当によかったと今当時を振り返ってつくづくそう思っています。
憧れへの勢い任せでやりきったアメリカ横断。今思い返しても、よくぞまぁあんな無鉄砲な旅ができたもんだなと不思議で仕方ありません。若かったってことですかねぇ。バイクレースに興じていた頃は、とにかく自分でも思い出すと怖くなっちゃうくらいスピードに目が点になっておりましたし‥‥それなりに早かったのですが、あのまま続けていたらおそらく今の自分はないのかもです。世間知らずで無鉄砲が自分のトレードマークのようにしてましたからね、あの頃は。その頃と比べると京都時代は随分大人として振る舞えていたのではと思っています。長い人生において“いい一休み/一呼吸”といったところだったんでしょうか。

大人へのリフレッシュタイム(京都時代)後、ボクは5年ぶりに故郷丹後へと戻ります。
幼い頃の思い出へとタイムスリップしたのかと思える風景、まるで変わりません。ほんと時間の流れがスローモーションなんですよね地方って。それが嬉しい。18歳で田舎を出たとき、もどかしくてたまらなかった田舎のスローモーションが、今心地よい、ちょっと大人になったかなと思う反面、随分身勝手なことばかり言ってるなぁと反省しきりです。でもそんなノスタルジック気分に浸れたのもつかの間、「バンドやらない?」と田舎の後輩から誘いが‥‥。これがボクの人生に大きく関わってくるんです。

実家の仕事もそれなりに楽しくやっていたんです。料理を作ることも配達も、とにかく仕事そのものはまんざらでもなかったんです。が、「バンドやらない?」の一言が何かに火をつけました。というかどうやらあの一言が寝た子を起こしてしまったようです。

バイクレースを卒業するとライブハウス廻りをコツコツやっておりました。基本弾き語りです。大学4年の秋、事件は起きました。大学同期生のバンドがポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)でグランプリを獲得し、その年の世界歌謡祭でもグランプリを獲得したのです!! そう世良公則とTwistです。翌年メジャーデビューすると、出す曲出す曲大ヒット。日本の音楽シーンを大きく塗り替えてしまいました。でもってその頃ボクはといえばボンとバンの2人を引き連れ(?)京都ライフど真ん中。ツイストの連中とはあまりの大違いです!? 離され過ぎて羨ましいとも思えませんでした。そして田舎に帰ってからもツイストが友人たちのバンドであることは、思い出の中へと封じ込めてしまったわけです。そして、音楽への熱い思いも同様に心の内に閉じ込めたままだったように思います。そんなボクに強烈な一撃です。「バンドやらない!?」いやいやこの一言を境にボクの生活は一変します。人生初のエレキを持ち、人生初のリードギター担当。アコギ一筋だったボクがです。

しかしなかなかエレキギターに馴染めません。「いやいやディランもきっとこうだったんだろうなぁ~??」などと戯言を言いながら、リードギターだけではどうにも自信がもてないので録音担当兼務を名乗り出ます。結果これが大正解。これがきっかけでボクの音楽との全く新しい関わり方が広がるのです。
バンドをやろうと声をかけてきた後輩には実は大きな目論みがありました。それは人気のTV番組のミュージックオーディションに出て、グランプリを取りレコード(時代な言い方です)を出そうという、どこかで聞いたことがあるような話です‥‥。

さて、音楽との新しい関わり方の話ですが、具体的に説明しときましょう。
まずはオーディション番組の応募用の音源の制作です。楽曲は後輩のボーカルの持ち歌で、バンド(ギター×2、Bass、キーボード、ドラムそれにボーカル+アコギ)の6人でアレンジをあ~だのこ~だのやっておりますと、メンバーの意見がいっこうにまとまらない。で、「イントロと間奏そしてアウトロはこんな感じ、アレンジの方向性はこんな感じにしない?」とボクが取りまとめをやることに‥‥そしてレコーディング(応募音源制作)も同様、ボーカルとバンドの音は全体的にこんなバランスで、エフェクトはこんな感じで‥‥とまたもや取りまとめ役です。こうして作り上げた曲があれよあれよでチャンピオンに、そしてレコードが出ることに、と言っても関西ローカル番組なので大阪地区のみですが、当然ボクらにとっては大事件でした!!「ジャケットどうする? 何着る?‥‥」でまたもやボクの出番。お分かりでしょう? そうなのです。アマチュアレベルではありますが、ディレクターだったりプロデューサー的な仕事をこなしてたんです。これがはっきり言ってギターよりもはるかに楽しい。天職じゃないかと感じながら忙しく、そしてワクワクしながら毎日動いていたことを思い出します。

このバンドはTVへの出演と2つの地元ホールでのコンサートで役目を終え、バンドメンバーはそれぞれの本業へと散って行きました。
ですが音楽制作にスイッチが入ってしまったボクは、8チャンネルのMTR(マルチ・トラック・レコーダー)を購入し、トッド・ラングレンよろしく一人多重レコーディングにチャレンジ、自分の楽曲を次々に仕上げて行きます。いやはやあの頃は楽しかった楽しかった。
仕事から解放されると毎日製作部屋(にわかスタジオ)に籠りっぱなしの日々。しかしこれがバンドをやるよりもずっと楽しい。どうやらボク、1人遊びが好きなようです!!
MTRを使ってのレコーディングに慣れてきた頃、そう田舎に帰って2度目の春でした。音専誌(音楽専門雑誌のことです)に作品オーディションエントリー迫る!! って公募の記事を発見。ヨシ! ここは腕試しと録り貯めた作品をオーディションに送ってみることにします。するとなんとなんとこれが関西代表にそして最終オーディションで東京行き。なんと強運なことか。

市ヶ谷の一口坂スタジオが最終オーディション会場でした。プロが使うスタジオなど言ったことなどありません。でもラッキーなことに、井上陽水のレコーディング風景を雑誌で見たことがあったので、そのスタジオの知識は若干ありました。ですからなおさらオーディション当日の緊張は半端ないものでした。「そうかぁ~、陽水さんもここで歌ったんだぁ~」なんて考えると、もう頭の中は真っ白に。
当時プロの世界はボクらからするとまるで神の領域ですから、そしてボクは京都丹後の田舎っぺですから。あの日の緊張感ったら、過去経験のないものだったことは理解してもらえますよね? とにかく特別な時間でした。そんなですからあの会場(スタジオ)に何組が呼ばれていたのか、コントロールルームから誰が審査していたのか等々まるで記憶がありません。もう、リクエストされた2曲を歌い切ることでいっぱいいっぱいでした。そして2曲歌ったという事実を持ち帰ることだけでこれまた精一杯でした。「結果は追って連絡します」と言うオーディションの締めの言葉を聞いてやっとこさ頭の中がこの世に戻った感じでした(!?)。
で、結果ですよね。なんとなんと最終審査合格!! そしてレコーディングと夢のような展開へと繋がります。やっとボクの順番が回ってきたーッ!! で、このお話はここまで。力入り過ぎて長くなってしまったので、急遽Vol.6で大ラスというあまりにボクらしい展開とさせてくださいませ。ペコ⤵︎


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