COLUMNCOLUMNグーフィ森の『Single Speaker』

Single Speaker Vol.54 『極私的プロファイルVol.6』 

2018-07-05

さてさて極私的プロファイルもいよいよVol.6最終回です。
Vol.5から少し時間を巻き戻させてください。
調理師学校卒業で実家へ戻ったのは長男坊としての使命感や目的意識があったからではなく、正直に言うと、自分の中で行き場所の選択肢がそれよりなかったからと言うのが本当のところだったように思います。今考えるとずいぶん贅沢な恵まれた話です。当時はその自覚などもちろんありません。と言うよりも実家が商売をしていることが重荷にすら感じてましたから‥‥。故郷はそんなボクですらやさしく迎えてくれました。それは全て祖父たちや両親たちが築き上げてきた地域からの信頼によるものだったという事実に気付くのはずいぶんと先のことです。

で、5年ぶりに故郷丹後に帰郷したボクを待っていたのは、バンドへの誘いでした。バンドを結成してオーディションのテレビ番組(当時のイカ天のような関西ローカル番組)に出よう、というものでした。この話はまさにトントン拍子で前へ前へと進み、結果優勝バンドとなり、大阪限定ですがレコードも出してもらうこととなります。トントン拍子の独り歩きのような展開でした。田舎へ帰ったらヒマになるだろうなと想像していた田舎暮らしとは大違い。バンドにライブに家業の毎日。おかげで生活にもメリハリが出て予想もできなかった帰郷生活の充実ぶりです。こうなると全てがうまく回り始めます。というか、身勝手なもので、家業の仕事もめちゃ好きになり始めます。そしてもちろん音楽に関する様々なクリエイティブ(曲作り、アレンジ、レコーディング、多重録音、ミキシングetc.)への開眼こそがその頃の最大級の収穫でした。これにより料理を考える、調理をする、これも立派なクリエイティブなんだと気付けることができたんです。そのことは顔つきや仕事ぶりに出てたんでしょうね。あれほどうるさく言っていた父が何も言わなくなりましたから‥‥。

これ教訓なんですが、好きなことに興じての一人遊びは、時に思わぬ効果/副産物が期待できるかも‥‥です!? そしてこれは副産物ではなく延長線にあったのだと思うのですが、一人音楽屋(多重録音による自作自演)2年目の秋のことです。覚えた多重録音で2曲を製作しレコード会社のオーディションに応募しますと、なんと関西地区グランプリ。そしてvol.5でも報告した東京一口坂スタジオでの最終選考会です。全くもってこの頃のボクはツイてました。やることなすこと全てが“正解”でした。最終審査の後「東京に出てきませんか?」と言う電話がかかってきたのは最終審査から3ヶ月後のことです。「ハイ!! もちろんです。すぐに‥‥」そう2つ返事で答えたことを忘れません。考えてみればあの一本の電話がその後のボクの人生を決定づけたということは間違いありません。だって電話の向こうには夢見た東京が待っているんですよ。25年半かけた人生の助走でやっとジャンプするときが来たのです。もう、ワクワクを通り越してバクバクでした。しかし、どうやって説得したのか全く覚えていませんが、両親を説得し東京行きを承諾させたのです。まぁ勢いあったんでしょうね。人生最初で最後のビッグチャンスだ!! とかなんとか有る事無い事並べ立てて、すんごい形相でまくし立てたんでしょうね。だから両親は唖然としたんだと思いますよ。説得ではなくもはや脅迫、に近かったんじゃないかと思います、きっときっと。

東京移住(?)はそんなバタバタなスタートでした。そしていきなりのレコーディングです。ところがここでちょっと躓きました。レコーディングがいっこうに始まらないのです。ミーティングを一度やったきりで、具体的なレコーディングの進行などなど、全く詰められていません。「どうなってるんですか?」と連絡を入れると、「もうちょっと待ってて」となんだかなぁの返事が返ってきます。2ヶ月近くして「会社にきてくれないかなぁ」というなんとも不気味な連絡、向かった先で耳にしたのは、「今は君をデビューさせてあげられないんだ」と強烈なアッパーカットな一撃。「ちょっと会社が難しい状況でねぇ、アーティストものをやる余裕が‥‥」「あぁ~そうなんですかぁ!?」というよりないでしょうが田舎者の一匹オオカミならぬ仔山羊には!? 当然です。しかもスマホもネットもない時代です。ましてやびっくりするほどの田舎者です。こんなとき頼る先などあろうはずがありません。アルバイトを世話してもらって吉報を待つ算段となってしまいました。ツイてないというか、そんな甘いもんじゃないって話ですよね。ですが今考えると、あの時しょっぱなでコケたのは、初めて雪道を歩いた時に滑って転んだようなもんだな、って開き直れたような気がしています。その経験が後の人生の良き肥やしになってるんだと思っています。いろいろありましたねぇ、やることなすこと人生初体験続きな毎日でしたから。上京物語はかなりなボリュームのドキュメンタリーが書けるんじゃないかな、いやいずれ書いてみたいとも思っています!?

さてバイトに紹介されたのは、プロユースの楽器および音楽用品のレンタル会社でした。レコーディングやライブでミュージシャンの要望に合わせ楽器などを貸し出すんです。持ち運びや移動が大変な楽器なんてのもたくさんあるでしょ、キーボードやギターアンプetc.‥‥。そういったものを日々のレコーディングやライブ会場に貸し出す会社でした。ですから仕事は都内の代表的なレコーディングスタジオやテレビ局、コンサート会場なんかがメインです。ボク的には願ったり叶ったりな仕事の毎日でした。いや夢のような毎日でした。だってそうでしょ、レコードのクレジットや音楽専門誌でしか見たことないプロフェッショナルな場所でプロフェッショナルな人たちとお仕事するわけです。いわゆる“業界”ど真ん中に入っちゃったわけです!? つい最近 京都日本海沿いの田舎から出てきたばかりの兄ちゃんがですよ、そりゃもうびっくりですよ!! ほんとツイてます。裏方とはいえ、いきなりの直球ストライクな感じで業界入りですから。しかもこの会社が素晴らしかった。業界では知る人ぞ知る老舗で、おまけに働いている先輩たちがみんなミュージシャンの卵たちばかり、しかも人柄申し分なし。音楽業界のこと、東京の生活についてなどなど、1から10まで教わりました。先輩たちはみんな地方出身者ばかりでねぇ、危なっかしい新人クンが気になってしょうがなかったんでしょうね。あ~だこうだとそれはいっぱい教わりました。ありがたかったですね当時のボクには。

この会社でのバイトは半年続いていました。都内のどのスタジオもテレビ局も顔パスで出入りできる“一端の業界人”になってはいたように思うんですが、またまた悪い癖が、、、「なんか違う。ここじゃないなボクの居場所は。うん、絶対ここじゃない!?」ってことでお世話になった楽器リース会社をあっさり辞めて、またまた職難民へ逆戻り。「ボクは何がやりたいんだろう? 何をすべきなんだろう?」と考えておりますと、自宅に積み上げられた“雑誌『ポパイ』”を発見。「そうだ!! ポパイの編集部へ行こう!?」とまたもや思いつきが大爆発です!? ここからは早かったですよ~。出版業界ど素人の強みと言いましょうか、雑誌裏表紙に載っていたポパイ編集部へいきなりの電話、「 使ってもらえませんか?」ありませんってそんなアプローチ、全くもって間違ってます。誰かの紹介だとかいろいろな手順を踏んでからのアプローチでしょうね普通は。そこはど素人のしかも田舎者ですから、もう真正面しか見てません。そんな強みといいますか凄味があったんでしょうね、偶然電話に出たのが当時の編集長で「あなたを使うと編集部が楽しくなる!? そうですかぁ、一度来てみてください」で、現在に至るってわけです。

この夏 大病を発症して10年目を迎えます。
森 哲也として25年数ヶ月、グーフィ森として37年数ヶ月、まだまだたくさんの素敵な出逢いが待ってそうな気配です‥‥。

※次回からはまたトピックスあれこれです。


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